2014/02/22

「レトリック感覚」を読みました

どうも "月2回の図書館通いが習慣っぽくなってきた" rintaroです
金銭も収納スペースも乏しいため図書館をつかうようになりました
引越の度に本の束を際限なく運ぶはめになって「本は選んで所有しよう…」と何度もおもったのもあります


最近はネットで図書館の本を予約できるので便利です
Chromeを使っている方は「その本、図書館にあります。」という拡張機能を使うとamazonからシームレスに図書館の予約に移動できて捗りますよ


さて「レトリック感覚」読みました
興奮のあまり読んでいる途中で感想文をしたためましたが読み終えたところでまとめておこうとおもいます
引用のまとめはこちら

思ったことはとてもたくさんあるけど2点にまとめました!



1. レトリックを通じて言語の性質を再考する


表現も理解も、基本的な信頼にもとづく小さな冒険に近いのである。 そして、直喩だけではなくすべてのことばのあやは、その冒険をできるだけ成功させるための、努力にほかならない。(P.77)
ことばを読むとは、たとえあとになってから批判するにしても、まずはさしあたって表現者の考えかたを受け入れてみるということであろう。 それが、表現と理解という言語の冒険を成功にみちびくための、読み手がわからの第一の協力にほかならない。(P.82)

文を書くこと
文を読むこと
言語を巡るやりとりは著者からされる表現の提案と読者の一瞬の納得の積み重ねといえる
レトリックを理解する過程でその一瞬を引きのばして確かめることができる


レトリックは技巧じみていてなんだか好きになれないというのもわかる
しかし素のままの言葉で事実や感情を伝えることはできないというのも経験的にわかっている

ことばの忠実な表現力=伝達力を信じすぎている素朴な、あるいは思い上がった人々がいかに容易にうそつきになるか。 言語妄信とその裏がえしの言語不信は、実際上はかなり近いところにある現象で、本当は自覚的な言語「半信」こそ、もっとも健全な姿勢であろう。(P.59)
そもそも言語は事実を表現するものではなく、事実に対するわたしたちの見かたを表現するものであろう。(P247)

有限の言葉で無限にある感情や現象を表現することが不可能なのは明らか
どれを使っても大きすぎたり小さすぎたり…ちょうどいい大きさにするために比喩表現などのレトリックが必要になる

辞書でことばを引いてみて、驚くべき意味の登録数を眺めてみれば、日本語の歴史を通じての、認識と表現におけるささやかな革新的対応策が次々と常識のなかへ編入されていったおびただしい痕跡をみることができる。(P131)
辞書がなにかの痕跡だなんて考えたことなかった



2. レトリックを通じた言葉の発見がたのしい


常識によってはじめから認められている類似性《にもとづく》比較表現はあくまで平常文であり、意外な類似性《を提案する》比較表現が直喩だということになる。すなわち、レトリックの直喩とは《発見的認識》である。(P98)
隠喩は、直喩のように類似性を創作することはできない。が、かくれている類似性、埋もれている類似性を発掘することはできる。それに新しい照明をあてることができる。(P139)
誤解されかねないとは、謎に似ているということである。結論をみちびき出す仕事が読者にゆだねられていて、隠喩の読者は、いわば解法を見つけるゲームによって遊び、みずから発見した解答にささやかな驚きを感じる。(P110)
直喩を読むとき 人はすでに類似性を発見している…!

もうひとつはレトリックによって示される意外な類似性に気づかされたときのたのしさ
濡れ光った美しい唇が蛭の輪のように滑らかだなんて 言われてみれば強烈に画が浮かぶが 川端康成が文にするまで気づいただろうか

文にこういう驚きや喜びの感情を与えることができるのはレトリックの働き

創造的な言語感覚は、しばしば名伏しがたい光景を発見する。(P316)
もっと見たことない景色を見たい
続きはレトリック認識で!